13回忌

ヒンズー教の聖地、ヴァラナシに行ってきました。

死んだ彼氏の骨をガンジス川にぶん投げて以来、

実に12年ぶりの再訪。

 

13回忌を迎えるにあたり、

年初から、いや7回忌以降ずっと逡巡し続け、

いろんな意味でインドに呼ばれた結果、

行ってしまいました。

 

○○回忌とは本当によくできた年数で、

あるいはただの偶然か、

わたしの人生の区切りとリンクしており、

そこで感じたさまざまなことをブログに書こうとしたところ、

まさかのログインできず、、、

いや、IDとかパスワードとか控えておかないと、本当に凍結してしまうんですねー。

13回忌のことを書いたらもう終わりにしようと思っていたブログも、

消化不良に終わり、じゃあまた新しくはじめるか!ということで、

前ブログの続きから書きはじめることにしました。

 

13回忌の節目にわざわざヴァラナシまで行ってやったのは、

わたしのためであり、彼のためであり、わたしの意地でもあります。

 

でも、日がな一日ガンジス河を眺めながらガートで過ごすのは悪くない。

そんな思惑がありました。

で、行ってみたら、上流の雨量のためか、

水位が上がったガンガーはガートをすべて覆い尽くし、

わたしのささやかな願望が実現不可能となっていました。

そんな、、、

ベンガリートラとか、ヴァラナシの街は地球上でもっとも不衛生な場所で、

インドのインドたる所以の権化みたいなところではありますが、

それは、ガート&ガンガーという聖なる要素があってこそ生きるのであって、

清濁併せ持つの、濁だけっていうのはホントにきつい。

ヴァラナシ駅から乗ったオートリキシャをゴードリアの交差点でおりた瞬間に、

牛の糞ふんずけるようなところですよ。ガンガーなくして投票なし。

 

しかたなく、ガンガービューのツーリスト向けカフェに行き、

猿よけの格子越しに、カフェオレ色のガンジス河を眺めることしかできない。

ヴァラナシの見所とか、ネットサーフィンしてるなかで、

東大生のブログをなんとなく読んだ。

 

バラナシの対岸には不浄の地と呼ばれる砂浜が広がっている。

観光客を乗せた手漕ぎボートが点々とするガンジスは三途の川のように見え、さらにその川越に見る朝靄がかかった対岸はあの世を感じさせた。

 

12年前にわたしがここにきたのは、たしか11月と次の年の2月。

そのときに見た風景は、沐浴や洗濯、その他万事が行われるガートとインド人、

対岸には砂浜みたいになっている河原。

河岸も対岸もすごく近くて、流れも雄大でゆっくりだった。

河は日常に溶け込んでいた。

もし、対岸があの世だとすると、あのときあの世はとても身近ですぐ隣にあるもののように思えた。

 

でも、いまは、

 

川幅は広く、ガートへ続く階段まで迫った河はより深く、

流れもはやいから、容易には近づけない。対岸もはるか遠くに感じられた。

 

それでいいんじゃないか、と思った。

 

もう、死はわたしの隣にはいない。

ずっと向こうの、よくみえない対岸のできごとだ。

 

わたしがここに来た前日に急に水位が上がったらしく、

インド人はあと2、3週間もすれば、

いつものヴァラナシに戻るだろう、と言っていた。

なんで、こんなタイミングに来てしまったんだろうと、

残念な気持ちが拭えなかったけど、

この今のガンジス河を見るために、呼ばれたのかもしれないと思った。

身勝手な解釈だけど、そう思うのはわたしの自由だ。

 

もう泣くことはほとんどなかったけど、

少しだけ涙がでた。

 

7回忌の時点でもうふっきれていたと思っていたけれど、

自分の中で確信はもてなかった。

でも、あの川幅が広がって近寄りがたいガンジス河を見たいまは、

もう本当にあっち側とは関係ないんだ、と思えるようになった。